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■新田先生からひこね第九演奏会へのメッセージ
ひこね市民第九公演によせて        指揮者  新田ユリ

<シラーの詩が教えてくれる事。そしてドイツ−日本−フィンランド> 

   Seid umschlungen, Millionen! (抱きあうがいい、千万の人よ!)シラーのAn die Freude(歓びに寄す)の第一節後半に出てきます。この想いをベートーヴェンはきっと今深い眠りの中で世界に向かって発信しているのではないでしょうか・・。人と人の間で私達は人間となることができます。その当たり前のことが現代という社会では非常に疎かにされてきました。

ベートーヴェンは作曲しませんでしたが、シラーの原詩にはこんな一節があります。

   Was den grossen Ring bewohnet, Huldige der Sympathie!

  Zu den Sternen leitet sie, Wo der Unbekannte thronet.

 (大いなる環に住まうものは、心を合わせようと努めよ! 通い合う思いは星星に至る、かの見知らぬ方のかますところへ)これは今地球が必要としている大切なことなのではないでしょうか。信仰のある人も無い人も、今の我々の状況が神の審判の前にさらされているのではという畏れを持つ必要を感じるのです。

 人が生きるということ、それはこの地、大地があってこそのこと。人類の知恵は何のためにあるか・・魂はどこから来てどこへ向かって行くのか・・日常思う様々な疑問が今の世界情勢を前にしてそのはっきりした答えを要求されているように私は思います。

 古来日本人はドイツ人と似たところがある、と言われています。又最近フィンランドと接するようになって強く感じるのは、フィンランド人と日本人は非常に近い感性を持っているということ。それはフィンランド人も感じているようです。とすると、A=B, C=B,よってA=Cとなるのか否か・・・。

 「森の民」という言葉、これはゲルマンという民族の名前に含まれている意味だということ、そしてスオミの国のフィンランド人もやはり森の民と言われています。国土のほとんどは森と湖に覆われているのです。日本はどうでしょう・・日本の大昔の自然への信仰はドイツの汎神論とも共通するように思えます。そしてフィンランドではカレワラ伝説の世界がまさに同じ自然神を描いたもの。自然界、自然のあらゆる現象を神の霊の実現であるとして畏れ敬っていたゲルマンの民、同じ思いの北欧の地からも影響を受けながら、一神教のキリスト教の勢力が増すまで有史前後森に宿る霊を畏れ敬う日々を過ごしていました。その魂は有史以降も又ベートーヴェンの時代にも深く宿り文学、絵画、音楽に描き出されているのです。

 Freude trinken alle Wesen, An den Brusten der Natur,

 Alle Guten, alle Bosen Folgen ihrer Rosenspur.

(生あるものはすべて自然の乳房に喜びを吸い、善き者 悪しき者すべて薔薇の小径に従う。)

そう、生あるものすべて同じ自然の中で生きています。それを忘れて傲慢に振舞う人類がすべてを壊しその報いを今受けていると思います。

Kusse gab sie uns und Reben, Einen Freund, gepruft im Tod.

Wollust ward dem Wurm gegeben, Und der Cherub steht vor Gott.

(歓びは我等に口づけと葡萄と生涯変わらぬ友を授け、虫には愉楽を与えた。そして智天使ケルビムは神の御前にある)自然を尊び守り育てるものは、必ずご褒美があります。歓びとは努力無しに得られるものではないと語っているように思います。慈しみ大切にすることが即ち歓びであり、そこから既に多くのものを人類は得ています。そして更に収穫の時には我々の糧となる実を手にする事ができるのです。こんなに豊かな循環はないと思います。

狩猟牧畜の民であったゲルマン人が大地に根を降ろして農耕も始め千年もの間森と平地での生活を送っていました。その中で大自然の四季の移り変わりを身をもって体験してその神秘に触れていたようです。これはカレワラ神話にかかれたフィンランド人の魂そのものです。狩猟の神タピオ、冬と氷の精ヨウカハイネン、太陽の輝きを表すポホヨラの乙女、大気の精イルマリネン・・・それらが踊りだす躍動感のある民族叙事詩カレワラ。ゲルマン神話に繋がる北欧神話とはいくつか源流を同じくしながらも別の文化として伝わっています。同じ森の民としての経験が生み出したものなのでしょう。そして同時にものを大事に育てる事、造る事への無骨なまでの真面目さも育まれドイツの性格を作って来たそうです。フランスやイギリスのような社交的な社会で育ってきた国家ではない。そんな質実剛健な性質がベートーヴェンの時代にも現代にも生きているのがドイツなのでしょう。

もの造りへの姿勢は日本も似ているところがあったと思います。いまやそれが過去のことになりつつあります。それは自然からものの素材を受け取り返していくという大事なプロセスを忘れてきたからだと思うのです。森林国家であることが共通の日本とフィンランド。フィンランドはパルプの輸出をとうに止めています。国土が破壊されることへの危機感があったそうです。日本はその危機感を持ちつつも経済原理の中で目をそむけてきて、そして今のっぴきならない状況に追い込まれているのだと思います。

フィンランドの人々は今この冬に向かう季節にパンを持って、麦穂を持って通勤通学をすることがあります。まもなく越冬をする小鳥達にとって厳しい季節になります。

巣箱を作り、木々にパンや果物をさし、麦穂を枝に置き、そんな小鳥達が困らないようにしています。半分凍りついた池や湖には必ずエサを蒔きに来る人がいます。学校でも自然教育は早くから熱心に行います。子供達は鳥の名前も植物の名前も結構詳しいのです。自然を壊す原因となることには、厳しい態度もとります。日本の過剰包装に対してはこの秋来日したフィンランド人が苦言を呈していました。わざわざこんなにごみを増やしてどうするのだ・・と。全くそのとおりで何も言葉を返せませんでした。